「緑の島」に親水空間を

暑い夏の一日、私は仲間たちと磯遊びに夢中だった。もう40年以上の昔の
ことである。函館山の裏にあたる“寒川”で遊んだ、懐かしい「思い出」だ。
その頃、私は近くの船見町に住んでいた。穴間のつり橘を渡り、小一時問かけて
その場所にたどり着く。
既に廃屋になっていた建物の壁板を剥がし、それを
焚き火にして豊かな海から何の苦もなく採ってきた、アワピやウニを焼いて食べた。
当時は海辺で食べる程度なら、大目に見られた。今のように、“がつがつ”と
うるさくない
、ゆったりとした時代だった。
朝から暗くなるまで、夏休みはそんな冒険に明け暮れ、“野外”が私たちの教室だった。
今のようにテレビゲームで遊んだり、塾に行くとかすることがなかったので、
今の50年代以上の中高年は、誰でもそんな「思い出」があるはずだ。

今では穴間のつり橋もなくなったので、“寒川”は容易に近づくことが
できな
い“秘境”である。

函館は、三方が海に囲まれた港町である。こんな身近に海に接して
いながら、水族館がないのはおかしいと20年前からそれを作ろうという
動きがあった。
私は子供の頃、潜って海中探検をしながら、泳ぐ魚や岩に
張り付いている貝
を見つけては楽しんでいた。そんな私だから素朴な気持ちで、
「緑の島」に水族館が出来ることを喜んでいた。
ところが、それだけでは
採算がとれないということで、大観覧車の計画が持ち上がってきた。

 私の通った高校は八幡坂の上にあり、教室の窓から市街地はもちろん連絡船
行き交う港、大森浜、遠くに横津連山、そして簿いピンク色の駒ケ岳が
望めた。
黒板を見ないで窓の外を、ぼんやり眺めていたことも多かった。それで先生に
叱られたのも、今となっては戻ることのない青春時代の“一コマ”である。
その大観覧車は、高さ約100メートルの大きさとのこと。函館山の三分の一
近くの高さである。
こんなものが港の中にそびえ立ったなら、今まで慣れ
親しんできた景観が台無しになるとの思いが次第に強くなっていった。

東京の友人は、“何もない”今の景観が魅カなのだと断言し、東京、横浜、神戸にも
ある大観覧車に乗るため、わざわざ函館に来る人は、おそらく一人もいな

いだろうと付け加えていた。

結果的には経済性の問題から、この「アクアコミュニティー構想」は
白紙に
なった。
「緑の島」の活用について、私には、こんな“夢”がある。
それは私の子供時代、時間を忘れて海遊びした「思い出」とつながっている。
島の中に、磯遊ぴのできる“空間”を作ってはどうだろうか。
海水を引き込んで岩を置き、砂や小石を敷いて所々に潮溜まりを作る。
そこに
カニや小魚を泳がせるのである。子供達が自由にその空間に素足で入り、
遊ば
せるのだ。そこでは「触ってはいけない」、「採ってはならない」という
“わずらわしい”制約は無用である。
大きな海水池を作り、ボートやカヌーで
遊ばせるのも面白い。
ボートの底を透明なガラス窓にして、泳ぐ魚や貝など
海の生物を見られるような工夫も、子供たちの興味をそそるだろう。そんな体験を通して
子供たちは、環境の大切さ、生命の尊さを知るのではないだろうか。

むしろ水族館の窓ガラス越しに魚や貝を見るよりも、手や足や身体全体で海の
生物に触れる事が出来たら、私の昔の経験からも、子供達に大きな感動を
与えることが出来るだろうと確信している。

 そのような計画であれば作り方にもよるが、水族館建設の数十分の一の費用
ですみ、また維持管理も安上がりと思う。もちろん事故を起こさないためにも
また海の不思議さを教えるためにも、
大人のガイドは欠かせないものだろう。
この海の“遊園地”にボランティアで協力する人は、私たち年代の人間では
少なくないはずである。なぜなら、もう一度昔の少年時代に戻りたいという
私たちの郷愁、そして海は限りない魅力をもつ“空間”だと、次の世代を支える

子供達に伝える義務があると感じるからです。

平成14年2月10日

亀田郡七飯町字大中山3211

                 グリーンヒルななえ2号棟101

福 留  誠

                 電話 0138−65−8815

                 職業  居酒屋経営

                 年令  54歳

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