寒川の歴史と生活
陳 有瑞
寒川の「和吉」
臥牛山の裏の裏
山背泊の奥の奥
小穴間 穴間の
深奥の彼方に
勘七落しの悲哀の彼方に
二筋の温かき泉湧き
三筋の清水謳い
豊饒の海 眼下に展がり
芳醇な陽光天空を駆ける処あり
人呼んで「寒川」という
(宮崎正孝著 “炎の山”より)
寒川の歴史は明治17年頃から始まる。
開拓の先駆者、水島和吉は富山県越中宮崎朝日町より入植した。
総勢8戸20名の同郷の漁師を率いて、コロコン舟と呼ばれる何艘かで
やってきた。和吉 31才の時である。
寒川の沖合は 津軽暖流と千島寒流との“潮目”ができるところで、
ブリ、イカ、マグロが豊富にとれた。
漁師を迎え又北洋漁業の足場として、寒川は船宿としても大いに賑わった。
集落は明治38年頃 28戸60名を数えた。ところが明治41年頃から
、次第に漁が少なくなり、漁場を樺太に変えていった。
和吉は網元で、大勢の雇い人がいた。住民の自立のため、学校の建設に尽力し、
又郵便配達も引き受けていた。
大正4年(1915年)5月6日、和吉が63才の時、郵便物を町から受け取った帰り、
波にさらわれ行方不明になった。ところが不思議なことに郵便袋だけ波
の届かない、吊り橋に残されていた。
又台所には、自分の家だけでは食べきれないだけの煮しめを大鍋に炊いてあった。
寒川へ行くには通称「おつけの浜」を通り、石黒組の石切場を横切って、
岩をくり抜いた人間一人がやっと通れる程度の小トンネルをくぐり、吊り橋を渡る。
海面から5m位の高さに7m程の上下2本づつのワイヤーを渡し、下の2本に木の
踏み板をくくりつけたものだった。
この橋が寒川の生活を支える“命綱”であった。入植した頃はこの橋はなく、山越え
して市街地に出ていた。
当初はその吊り橋も、上下1本のワイヤーを渡しただけで、上の1本に手を握り、
下の1本に両足を乗せて蟹のように横歩きして渡ったものらしい。
この吊り橋も荒波で一年に何度も流された。記録によれば、昭和7年から17年の間に
20回も落下した。多い年は一年に4回も流された。
吊り橋を過ぎると高い断崖が続き、絶壁を削った、やっと一人が通れる道を歩く。この道
最大の難所で、過去に3名の人達が波に呑まれ、溺死している。
悪天候時や吊り橋の無い時などは、穴間手前の小トンネル脇の急斜面を登った。丁度吊り橋
の真上に出て、目をくらむ絶壁の淵を通り、反対側の崖を70m位下る。
勘七という漁師が、ここで転落死したことから通称「勘七落し」と呼ばれている。海沿いの
通路が断たれた時は、その他に背後の沢伝いに函館山を登って、町に出た。舟も交通手段で
あったが、普通は陸路であった。
寒川では、集落中が同郷の出身者で何らかの血縁関係でつながっていた。これが、この
不便な狭い土地に住みついた要因の一つで外部からは、はかりしれない安堵感があったようだ。
日露戦争の時、沖をロシア船が通るからと立ち退きを迫られ、“要塞より我々が先にいたんだ”
と頑とはねつけたという。
「冬は暖かく夏は涼しい寒川は、保健上から理想的な場所で村人は健康に恵まれ、まだ医師を
招いたことはないそうである」
(函館日々新聞 昭和2年5月25日)
「寒川にいるうちは、気持ちがのんびりしてねえ、夏の朝など、なんとも言えないくらい
良かった。」(前川ヤエ談)
「海の凪でる日は、まるで竜宮城のようだった。」(佐藤フジ談)
その一方では「昭和9年、樺太から嫁に来て、昭和29年までの20年間、楽しかった事は
ただの一度もなかったよ。もう二度と行きたいとは思わない。」(扇谷サヲ談)
インタビューの最中
しかし、政治さんも懐かしくて、函館に来る度に訪れたといいます。前川兵三郎さんも、
引っ越しした後も毎日通っていた。
扇谷さんの語る辛い寒川も、佐藤さん、前川さんの桃源郷のような寒川も、どちらも寒川の
本当の姿なのだろう。
貧しかったからこそ、不便だったからこそ味わえた、ここに住んだ者にしかわからない素晴ら
しい体験があったと思われる。
住民には長寿の人が多い。恐らく自然の中での労働、自給自足の農作業、ゆったりとした自然の
環境など、人間が生きる原点の様な生活が寿命を伸ばしているのではないか。
寒川の女は働き者でした。モッコで魚や海草を40s、多い時は60sも背負う人がいた。
夏は農作業、冬は海草採り、その上家事、育児と忙しかった。
浜で遊ぶ函館の人を見て「マチの人はこんなに暇があるのかと思った」(扇谷ミサヲ談)
自給自足的な生活のお陰で、戦時中は市街地よりむしろ食べ物が豊富だった。しかし、戦後
しばらくして函館はどんどん発展してゆくのに比べ、原始的とも言える生活そのままの寒川は
、その差が次第に大きくなった。
集落には3本の川が流れていた。それで古くから「サブカワ」または「3本川」と呼ばれて
いた。日常の飲料水は、川から太い竹の筒を用いてコンクリートの貯水槽に導き、そこから桶で
各戸の炊事場に引き込んでいた。
又冷泉が湧き出ているところが2ヶ所あった。松浦武四郎の「エゾ日記」に「岩間に清水ありて
外に砂原あり、温泉多けれどだれも行くものなきによし。」とあり、ぺリ−提督の「日本遠征記」でも、
この冷泉の成分や薬学上の効用を述べている。
脚気、リュウマチ、神経病等によく効くといわれ「市街地の網工場で働いた人が、痛めた手の皮膚に
よく効くと云って冷泉を汲みに来ていた。」(前川ヤエ談)
電気が通っていないため、明かりはランプが頼りだった。
ガラス製の「ホヤ」は、一晩で「すす」がつくため毎日磨かねばなりません。手が小さい子供達は、
磨くのに好都合なものだから、よく手伝わされた。
前浜の海に突き出している海食棚は、良い仕事場でした。波打ち際の50センチ位の石をひっくり
返すだけで、アワビ、ウニ、ツブ等が獲れました。これらは漁業権がありませんが、自家用に食べる分
だけは大目に見られてた。
寒くなればノリのシーズンです。1〜5月頃まではノリ、3〜4月頃はフノリの時期です。こうして
取ったノリを市街地に売りに行き、収入にしていた。
冬のノリ採りは体力がひどく冷え、わらじかけを身につけても、寒さがこたえます。
磯に焚き火をし、その回りで一杯やって体を暖めるのが常だった。
暖をとりながら民謡を歌う人もいました。家では婆さん達が風呂をわかして待っていた。
子供達にとって、前浜は絶好の遊び場です。「貝取りなどして気がついたら夜だった」と幼い頃の
記憶を語る人もいた。
寒川の夕暮れは素晴らしいものです。向かい側の上磯の岩肌が薄茶色にけむり、東側には、津軽海峡が
広がり、夕日を受けて全部が真っ赤に焼けて輝きます。そしてその夕日は穴間の方の崖の中に突然姿を
消すのです。
月夜は、この海食棚でアワビ、ツブの大漁の日でした。
寒川にはたくさんマムシの巣があった。しかし、ここの住人は見つけても殺しませんでした。
マムシも悪さをしなかった様です。
町から来た人は、道以外の所を歩いて驚かすので噛まれるのだそうです。ここではマムシとも仲良く
共存していた。
寒川には幸小学校の分校があった。正式名称は「公立幸尋常小学校所属特別教育所」です。明治39年
(1906年)に個人宅を借りて開校し、翌年校舎が落成した。教室が1つで、15畳の広さでした。
大正13年と昭和6年に増築して、35坪の建物になった。
開校時は8人であったが、大正10年から昭和9年頃までが児童数の多いときで、10人〜16人であった。
昭和18年の閉校時は2人であった。
ここで昭和6年に着任して、閉校時まで分校の教師をしていた山岸俊亮について書く。先生は寒川勤務が
嬉しかったようで「・・・転職の光栄を得たるは、小生の深く悦びとする処に候・・・教師としては最早
すでに疲れたる残骸に有え候へば・・・専心忠実に努力する覚悟・・・」と挨拶状にある。
すでに58才であった。着任早々、本道の特別教育規定などによらず、本校と同一の教材・教具を使用して、
本校と変わらぬ初等教育の実施を試みた。
しかし、これを2ヶ年実施した後、軌道修正を決意する。
本校と遜色ない子どもに育てようと思っても、水道も電気もないランプの生活、家庭教育の欠如、新聞を購読
する家庭は皆無、郵便配達も3日か5日おきという陸の孤島では空回りするだけだった。
函館の子供と肩を並べようとしても劣等感を持たせるだけだ。むしろ、寒川の自然環境の中でのびのびと
屈託なく成長させるべきとの方針に変わった。
「或る時は砂に転び、蟹に角力を取らせ、釣りをなし、貝殻を集め・・・」と。
指導の重点も、情操の陶冶と読み書き能力の育成であった。先生の教え子、多田キクエは
「作文、習字、絵に力を入れさせられた・・」と語っている。閉校時はすでに71才であったが、
退職しても寒川と縁が切れることがなかった。
昭和22年まで、冬期間を除き教員住宅に住んで、分校の記録や自己の生活記の執筆に当たっていた。
昭和13年頃から市内に移る住民が増えた。
昭和29年9月の洞爺丸台風はこの寒川にも破壊的な被害を与え、かろうじて残っていた4〜5軒も移転を
余儀なくされた。
このようにして明治17年から細々と続いていた集落は実質的に消滅したのである。
あとがき
昨年の秋 次の二著が相次いで刊行された。
1.寒川 著者 大淵玄一
1.寒川集落 著者 中村光子・古庄紀子
寒川の歴史と生活は上記の本をほぼ忠実にまとめたもので、私が新たに書き加えた点はない。
仲間内の小冊子なので勝手に引用させて戴いた。私に対し、“寒川の知識”を与えてくれた
三人の著者に心から感謝したい。
又興味ある方は図書館等で原著を読まれることをお薦めしたい。
さて昨年の9月再び寒川を訪れた。今回は一周せず立待岬が見える丘まで行って戻ってきた。
歩きながら何故こんなに不便な場所に何十年間も住み続けたのだろうか。こんな疑問を抱きながら
周囲の風景を見まわした。住民の証言にも「まるで天国だった」という人もあれば「二度と行きたくない」
という人もいる。私はどちらも真実ではないかと思う。私も夏の穏やかな日だったらテント生活でもして
みたいという気持ちにかられた。
小林君(共同通船)の船をチャータして仲間で寒川に遊びに行く計画はどうだろう。
昨年の探訪記に早速木村有道先生からお便りを戴いた。「小学生の頃(1940年前後)母と一緒に団体で
港からの舟(かなり大きかった甲板を走りまわれた)で寒川部落に上陸したことがある。小さな学校が
あった記憶がある。マムシで昔から有名なところなのでかまれず幸いでした。戦後自由に元要塞の
函館山に入れるようになったので、1946年(中学一年)から時々函館山を歩きまわるようになり御殿山から
けものみちみたいな道路を下り穴間に下ったこともあります。(もうそんな道はないでしょう)」
又同期の上野明子(碇)さんから「旅」という雑誌に掲載された「函館山、幻の鶴亀温泉探検隊」
の探検記が送られてきた。
同封された手紙には「30年以上前に船の上から見えたバラック建ての寒川村“あそこで金が採れるって
信じてまで掘っている人がいるんだって”と言いながら妹と話した事を覚えています。
四季を通じて何度も家族と歩いて登った函館山ですが、どの角度から見ても寒川村は見えませんでした。
あのくずれかけた煉瓦の要塞跡と共に“子供の頃の不思議なゾーンとして、ずうーと思い出の中に
残っています。」
“寒川”は我々の青春時代を呼び起こす原風景かもしれません。