函館山裏探訪記

     

                                            陳 有 瑞

これは函館山の裏を歩いたり、泳いだりして一周した時の記録で

ある。一昨年の秋、9月10日の出来事である。

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 私の高校時代、海で泳ぐと言えば立待岬か穴澗であった。

夏の天気の良い日など、ドック前の電停から穴澗まで人が列をなして

いた。

石切り場を横切り、岩をくリ抜いた道を歩いてワイヤーを渡した吊り橋に

たどり着く。この橋を渡って、精々2〜300m位の間が海水浴場となった

海の道具一式と昼食を持って、電停から延々と歩き、結構疲れた思い出がある。

しかしその先は、私には末知の世界であった。

集落があって、50年程前まで人が生活していたという話を、私が聞い

たのは、そんな昔ではない。

それが、函館市字寒川村のことである。この幻の集落にいつか行って

みたいと思っていた。

 平成10年の9月、ついに実現した。天気は無風快晴、波はない。

平日であったが、この日を逃したら来年になると思い、決行した。

朝、いつもどおり会社に出勤して「遠くの不動産を見に行くから戻って

来ない」と事務員に伝えた。

まず到着地点の谷地頭に車を置いて、タクシーで穴澗に向かう。

持物は着替えの衣服、パンツ、水中メガネ、タオル、食料品の他に

小型ガスバーナなど、他にカメラも持参した。

しょう油とワサビも忘れなかった。

海に親しんでいる人なら、この調味料の意味がわかる。

これらを、アメリカから取り寄せた防水製のリュックサックに詰めた。

”ペンギンズバレー”という喫茶店の前で降り、「密漁禁止」という

看板のある鉄柵を越えて、まず出発だ。10時だった。

 昔、恐る恐る渡った吊り橋は今はない。コウモリの群れる洞窟前の海は、

今も青く、神秘的である。約20m位なのだが、泳いで渡らなくてはな

らない。このために防水用リュックを用意したのだが、海の中では、浮袋

にもなった。リュックを背負ったまま、しばらく海中散歩をする。

上陸してから30〜40分程歩く。小石混りの砂浜で歩きやすい。

ここに来るには、私のように泳ぐか船、あるいは山を降りてくるしか方法がない。

人間が訪れることは、ほとんど稀だと思う。

しかし岸辺には、人間社会が生んだ大量のゴミが打ち上げられている。

丸太や木片、発泡スチロールの箱、ペットボトル、タイヤ、おまけに石油

タンクまである。ハングル文字で印刷されたキムチラーメンの容器、ロシヤ語の

空ビンと国際色豊かだ。人目がつかない場所だけに、片付けられることもないようだ。

山から小さな、小さな川が流れていたので、少し早かったが昼食にする。

ここでも海中散歩を楽しむ。ウニ、アワビは探す必要がない位豊富だ。

海に入ると時間を忘れてしまう。今日は一周するのだと言いきかせて再び歩きだす。

しかし人間が住んでいたという痕跡は、どこにもない。

 注意深く見渡して、やっと見つけた。

山の斜面に張り付くように石垣が残っている。草深い中に建物の柱の

ようなものが数本見える。先日聞いたのだが、高校時代のA君は、何度か

ここを訪れたという。その時、人は住んでいなかったが、3軒の家があっ

たそうだ。

 記録によれば、明治17年、富山県の漁民が移住してきた。

12所帯、60人の集落であった。幸小学校の分校もあったという。

働き手の男は前浜のブリ漁が終ると、樺太やカムチャッカの漁場に出稼ぎ、

留守を守る女、子供は海草やウニを採って生計をたてた。

だが洞爺丸台風に襲われたこの集落は、甚大な被害をうけ、住んでいた

人間もこの地を去ったといわれる。

今から46年前の、昭和29年9月26日の出来事である。

水は山から流れているので何とか確保できそうだが、電気、燃料、食料品

などはどうしたのだろう。

裏の山から薪をとり、明りはランプだったのではないだろうか。

オカズは前浜の魚介類が豊富だから、間に合ったと思う。

米や生活用品を手に入れるには船か、吊り橋を渡って街まで出かけなければならない。

岩礁をつたって歩くので、時化の時、波にさらわれたこともあるだろう。

ここは、吊り橋一本が生命線の‘陸の孤島”であった。その吊り橋も毎年

のように切れた。山の向こうは、ネオンまたたく文明社会である。

 私が物心ついた小学2年生の頃まで、すぐ近くにこんな自給自足的な

生活をしていた人達がいた。夏の穏やかな日はそれこそ”桃源郷”だった

ろう。

しかし寒風がまともに吹きつける冬は、厳しいものだったと思う。他に

どこにでも住む場所があったはずなのに、なぜ何十年もの間この地にしが

みついていたのだろうか。こんな疑問を抱きながら歩きつづけた。

 ある程度空間の開けた集落跡を過ぎると、次第に海辺の石も大きくなって歩き

にくくなった。

山崖がギリギリまで海に迫っている。溶岩が固まったような黒い石が多い。

海に浮かぶ岩に、黒い水鳥が十数羽休んでいる。私自身野鳥の会会員だが、

恥ずかしながら名前がわからない。岩は糞で白くなっている。                                                 

小休止をとって海の中をのぞく。澄み切って、汚れを知らない。

まるで沖縄の海を見るようだ。20分−30分海中散歩する。

名はしらないが、小魚が群れている。アワビが岩のいたる所で遊んでいる。

まさに"天国"だ。

といっても,ゆっくり楽しんでいられない。日暮れまでには、立待岬に

到着しなければならないのだから。

末練を残しながら歩き出したが、背丈くらいの石がゴロゴロしている。

アップダウンも激しく、まるでロッククライミングしている感じだ。

未知の場所なのに、地図を持ってきていなかった。

 この岩の向う側に出れば立待岬が見えるだろうかと、期待しながら歩く。

疲れも手伝って焦ってきた。ここに来ることを、誰にも言っていない。

足をくじいて動けなくなっても、誰も助けにきてくれない。

ましてや、ここはマムシの生息地である。かまれて毒がまわったら観念

するしかない。沖を通行する船に救助を求めても、声が届くだろうか。

そう考えると崖からせり出した岩が、今にも自分めがけて落ちる気が

してくる。「何かやり残したことがあるかなあ一」

「ここで遺難したらカッコ悪いなあ一」と少し弱気になる。

小高くなった丘に登った時、やっと遠くに立待岬の展望台が見えた。

”ヤレヤレ”とここでコーヒータイム。

持参の小型バーナーでコーヒーを沸かし、甘いクッキーを食べる。

実に美味しい。

記念に、石を積んでケルンを作った。

 時計は2時半を過ぎていた。後どの位かかるだろうと思いながら、

ひたすら歩く。後でわかるのだが、ここからの歩きが一番険しく

長かった。海へ滑り落ちそうな急斜面を、這いつくばるようにして登る。

これなら泳いだ方が楽だと、何度も思った。

家一軒分もあるような岩が幾重にも折り重なっている。隙間から海面が

みえる。波の音が足元から”どーん、どどーん”と響いてくる。穴から

落ちたらもう浮かんでこないと思って、歩くにも慎重になる。

目の前の立待岬が、なかなか近くならない。カモメが頭上をとびかう。

 4時近くになって人間を見る。予期していなかったので、”ドキッ”

とする。ここは自殺の名所でもあるから尚更だ。相手は、ヘルメットを

かぶり海に竿を出している。思い切って「コンニチワ」と声をかけた。

相手は一瞬”キョトン”としていた。

やや間を置いて「どこから来た?」「穴澗方面から」

「吊り橋はどうして渡ったのか」「泳いだ」

「私も若い頃何度か一周したことがある」。そんなふうに暫くの間、

共通の体験を話し合った。

ここは彼の秘蔵の”穴場”らしく、山から専用の道をところどころ

ロープを伝って降りて来るという。自ら草刈りをして、道を確保して

いるらしい。もう到着点は近い。

ところが岩が屏風のように、海にせり出している。

 

渡ることができない。裸になって泳ぐ。再び岩を歩く。又泳ぐ。

やっと、立待岬のいつも来ている場所にたどり着いた。

リュックから,TシャツとGバンを出し着替えた。防水性は完壁だった。

 上の展望台に登った。大勢の観光客を見て、私も無事、人間杜会に

戻ったことを実感した。

ここからもう一度、歩いてきた海岸をながめた。天気にも恵まれたこと

を感謝した。

時計は5時をまわっていた。

 家に帰ってタ食のビールを飲みながら、今日の一日の出来事を知らない

妻に「素晴らしい不動産を見てきたよ」とだけ言った。

 

             平成12年2月記す

 

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           あとがき

 

 いつも見たり登ったりしている函館山の”裏”がどうなっているか、

昔、連絡船から眺めただけで、ほとんど知らなかった。地図も持たず、

単独で、しかも誰にも行き先も告げず行動したのは、今になるといささか

軽率だった。私は52歳、職業は不動産業である。

 尚、昨年の秋この寒川の生活と歴史について、次の二著が刊行された。

興味ある方は、図書館で読むことをお薦めしたい。

 

 1. 寒川      著者  大淵玄一

 

 1. 寒川集落    著者  中村光子 、古庄紀子 

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