<2003夏期セミナー>
2003年8月24日
21世紀におけるこれからの暮らしを考える−安全性の考え方
吉田総夫
はじめに
現代文明は20世紀に発達した巨大技術によって支えられていると言えます。巨大化、高度化した
技術によって、高速の交通システムや電化製品にあふれた住居、豊富な食生活、高度な医療、休みなしの
娯楽の提供など、一世紀前の人々にとっては信じられないほど便利になりました。同時に戦争の技術も
巨大化しましたが。
しかし、巨大技術は便利な生活と引き替えに安全な暮らしを脅かすことにもなりました。原子力発電所の
事故は破滅的な被害を引き起こすし、航空機や新幹線の事故は大事故に直結します。また大量生産される
食品に添加される危険な物質は大量の被害者を発生させます。それ以上に有害物質に取り囲まれた
日常生活をおくっていることが大きな問題です。
安全な生活をおくる上で大切なのは、国や企業が安全ですと言ったから安全だと信じないことであり、
「安全とは何か」ということを論理としてつかむことだと思います。今回のセミナーでは安全性について
早い時期から問題にしてきた物理学者で哲学者だった武谷三男氏の「安全性の考え方」を紹介したいと思います。
安全問題のとらえ方−常時運転と事故時の対策
毎日さまざまな事故が新聞、テレビなどで報じられています。現在のような情報過多の時代では次々と
流される断片的事柄の洪水的な情報の中で、自分に直接関わりが少ないとすぐに過去のことになって忘れて
しまうことが多いのです。取り壊し中の建物の壁が道路側に倒れて歩行者が死んだとか、橋桁が落ちたとか、
高速道路での車の多重衝突事故だとか、飛行機のニアミス、工場での爆発火災、無許可の農薬使用、危険な
産業廃棄物の不法投棄などなどきりがありません。
事故が起こるとしばらくは騒がれ、事故の種類によってはそれなりに原因究明と対策がとられますが、
往々にしてその場しのぎの究明で、なかなか根本的な対策がとられません。これは事故の原因究明と責任を
とことん追求するより、起こってしまったことは仕方がないとあっさりあきらめたり、ものごとをあいまいな
ままですませてしまう日本的な文化的風土のせいもありますが、政府や企業の社会的影響力が非常に強く、
市民個人個人の意見が行政や社会に反映しにくい日本社会の政治的特色のせいでもあります。テレビで無責任に
しゃべるだけの評論家はどっさりおりますが。
安全問題の場合、いちばん重要なのは、めったに起こらないけれども起こったらたいへんなことになる
というような事故についての対処の仕方で、原子炉なんかがよい例です。
新幹線なんかは、これまで危ないといわれながらも、大きな事故は起こっていないので(騒音公害は別として)、
世上では何も心配しなくてよかったのではないかと考えがちです。それは起こらないのが当たり前なのであって、
起こってもらっては大変だし、また起こる可能性はこれからも大いにあるということです。
ここ10年ほどの事故の例をみてくると、本当に信じられないような原因で起こった事故が多く、
「タガのはずれた日本」だと私も思うのですが、これも安全問題への認識の甘さが普遍化してきた
せいだと考えられるのです。
「常時運転でも、原子炉は使用者がだんだんルーズになると、めちゃくちゃなことをやりだして、
ひどいことになるのです。それはあらゆる産業はもう全部そうですけれども。つまり安全のために
こういう建前であるというのが、やっている人が面倒くさくなってはずす面もありますが、やはり利潤
の面からいっても、なにかほかにはずす至上命令があるということです。」1)
この文は、武谷三男が1969年に述べたのですが、ここで指摘されているのとそっくりの事故が
1999年9月30日に東海村で起こったJCO臨界事故です。この事故は2名の死者と667名の
住民被爆者をもたらしたウラン再転換加工工場での事故で、臨界つまり核分裂が持続する状態の事故
として国際的にはソ連のチェルノブイリ原発事故(1986年4月)、アメリカのスリーマイル島原発
事故(1979年3月)とともに近年における三大事故と位置づけられているほど重大な臨界事故です。
この事故の原因究明も事故責任も現在に至るまであいまいなままにすまされています。作業効率を
上げるために「ウランをバケツで沈殿槽に入れた」無知な作業者の責任(亡くなった二人)にされて
しまったのですが、本当は沈殿槽を使う手順の危険性をチェックもせず、臨界事故の危険性を教育せず、
作業性の悪い装置の改善をやらなかった会社上層部のずさんさと怠慢、さらに臨界事故は起こりえないと
甘く考えていたことが根本にあるのです。たとえ人為ミス、手抜き,機械の誤動作、故障が起こっても
臨界事故にならない、そういう沈殿槽の設計が難しくないのに、設計の根本的欠陥をチェックできなかった
科学技術庁、審査に当たった安全委員および審査に協力した学者・研究者こそこの臨界事故の最大の
責任者なのです。2)
1955年のジュネーブ会議でアメリカの原子炉安全委員会の報告には「原子炉は10年間
動かした人でも最初の一日のときのような細心の注意を忘れては危険である。原子炉は本質的に
危険なものである。主な川の流域には置いてはいけない」とあるのですが、今では日本の原発推進者の
多くはこの言葉を忘れてしまったようです。
このことは、昨年8月に明るみにでた原子力安全・保安院と東京電力による「二九件の不正」の
発表がよい例です。2000年7月にアメリカ在住のGEの作業関係者から当時の資源エネルギー庁に
文書で内部告発のあったことがらを隠し通せなくなって、自主点検でのデータ削除や改ざん、隠匿の
事実を明るみにしたのです。3)しかも具体的なデータは発表しないで、「これらの事案は、直接
原子炉の安全に重大な影響を及ぼすものではない」と決まり切った文言で締めくくっています。
安全問題の考え方−許容量について
「安全問題を考えるとき、いちばん重要なのは論理である。論理的な考え方が重要で、専門知識は
役にたたないというより有害な場合がある。つまり、専門知識というものは、ある狭い範囲の知識
だから、こうやったから、これとこれの装置がついているから安全というようなことになる。本当は
安全問題はもっと広い範囲の問題がいろいろ錯綜しているものだ。」1)と、つまり、それは技術的な
問題に限られるのではなく、広く社会的な面からも多面的に考察しなければならない問題だという
ことです。この武谷の安全性の論理は1954年3月のアメリカの原水爆実験によって被爆した
第五福竜丸のビキニ事件で、許容量の概念をめぐって最初の真価を発揮したのです。
「許容量という言葉があるが、これが長い間ゴマ化しに使われていた。つまり、ここまでは安全で、
ここから先は始めて危険であるというふうに使われていたわけだ。専門家はそれを値にとって、これは
許容量以下だから安全だといってきた。ところが許容量以下でも危ないということを最近はっきりさせた
のが放射能の問題だ。このような蓄積的なものは許容量以下でも被害がある。」1)
現在でも、あいかわらず許容量という言葉が、合成着色料、防腐剤、保存料などの食品添加物の危険性を
ごまかすのに使われています。家庭料理に添加物をわざわざ入れる人がいるかどうか考えただけでも
わかることです。長期間、調味料として使われている「味の素」のようなものさえ、グルタミン酸
(アミノ酸の一種)の弊害が問題になっているのです。
許容量という言葉の次に使われているのが「最大許容量」という言葉です。これは1954年の
国際放射線学会での許容量の定義を援用したもので「現在得られている知識に照らして,生涯のいずれの
時期にも感知されうる程度の身体障害を起こさないと思われる放射線量」4)という考え方です。そして
「最大許容量以内ならばどんなに受けてもかまわない」1)という形で使われているのですが、これは
手の込んだごまかしなのです。
人に害になるものといっても、健康な人と病人とでは、あるいは若者と老人、子供とでは、影響が
異なるのは当然であって、一般的な形でこの程度なら安全ということはそもそも存在しないのです。
微量ならば無害であるというのではなくて、いかに微量でもそれなりの被害があるということです。
しかし、結核検査などのためにレントゲン検査によって病気の発見、診断という有利さもある例の
ように、許容量とは、その人にとって、有害さを有利さのためにがまんする量だということであって、
”そこから下は無害な量”という自然科学的な概念ではなく、その人にとって、それを受けることで
得られる有利と有害のかねあいで決められる社会的概念であるということ。それも、その人にとって
ということを忘れてはいけない人権的な概念だということです。それだけに許容量は国や企業、社会の
有利のために個人に犠牲を強いるための「量」ではなく、あくまで「その人にとって」ということが
重要なのです。
ところが、この考え方すら曲解されるむきがあります。「ある特定の個人が、自分はどんな危険を
犯してもこれだけの金がほしいという場合には、なんでもそれでいいのかというと、それはとんでも
ない話である。ギブ・アンド・テイクにも、ヒューマニスティックな意味での限界があるのは当然の
ことである。人間というものは貧すれば鈍するもので、日本の労働者には、もらうものさえ多ければ
どんな危険な職場でも働くという伝統がある。これは根本が間違っている。私がいった意味は人間
としての基本的人権の範囲内での話なのである。」1)
安全証明としての動物実験のごまかし
動物実験の結果というのは危険を明らかにするためには使ってもよいけれども、動物に安全だから
といって、人間にも安全だということにはひとつもならないのです。これはサリドマイドなんかが
よい例です。妊娠初期に飲んだ催眠薬サリドマイドによって奇形が生じる薬害では、一般の動物実験では
ほとんど奇形が生じないのですが、カニクイザルという特殊な種属を使うと、人間とほとんど同じ条件
のもとで、100%に近く奇形が生ずることが証明できたのです。だから動物実験というものは、
危険を示すためのものであって、安全を示すために使ってはならないし、安全の証明に使われよう
としてもだまされてはならないのです。
少数回実験による安全証明のごまかし
食品検査などで問題になっても少し経つと国や自治体で安全宣言が出されるが、安全テストは
たいていが少数回ですませています。これも論理的にいって、少数回のテストでだいじょうぶだった
ということが、決して安全だということにならないのです。いえるのは少数回のテストでノーと出た時、
安全でないというだけです。少数回のテストで何万という単位で生産される食品の安全性の結論を導き
出すということが問題なのです。少数回のテストの結果が何を意味するのか、それの安全性との関連に
ついての法則性が樹立していなければなにもいえないのです。こうした論理が不可欠であって、いくら
いろいろなデータを出しても、その論理がなっていなければ全部アウトなのです。
確率や統計の数字による安全証明のごまかし
「事故率が百万分の一なら無視してよいといういい方をするのだが、いくら何億分の一だって、
自分が被害を受けたら困る。大体、トクすることで危険を負担するならまだよいが、トクもしないで
危険をしょいこむのは誰でもごめんこうむりたいことである。たとえば、ビタミンの錠剤を大量に
売るとする。その中に一錠だけ毒薬をを入れておく。それに当たる確率はたしかに大変少ないけれども、
その一錠を飲んだ人は必ず死ぬ。いくら確率は少なくてもやってはいかんことはいかんので、確率
だけでものを判断してはけない。
自動車の場合、10のマイナス何乗の危険は『許容』しているというが、そういうのは『許容』
ではない。自動車事故はあくまで減らす努力をしてゼロになるように努力しなくてはならない。
ゼロにならないのはやむをえないとしても、百万分の一の確率を無視したり、ゼロに向かっての
努力がない限り事故の確率は必ず増大する。こういう混乱は、確率の哲学が貧困なためで、その貧困は
確率以前に考えるべきことを考えていないから起こる。確率とか統計とかは、社会全体としてものを
考える時には意味があるのだが、自分が死ぬかどうか、という点では問題は別になる」1)
「世人は何ppmといった数字さえ出せば科学的という印象をうける人が多いが、実は数字というものは
あまりあてにならないものである。数字が得られた根拠をはっきりさすことこそ、科学的というべきである。
数字はその解釈によっていろいろに使われるので、簡単に信じ込んではいけない」1)
安全装置の神話、性能のよさは安全性につながらない1)
原子力発電、大型航空機(ジャンボ)、新幹線、石油コンビナートといった最新最高の性能技術で
成り立っているものは、「二重、三重の安全装置がついているから安全」というのが、一般の人に
たいする安全性の説得のうたい文句です。本当は二重、三重の安全装置がついているから安全
なのではありません。「二重、三重の安全装置がついていなければ話にならない」というだけの
ことであり、その安全装置もどの程度の信頼性があるのかが問題なのです。原子炉の緊急冷却装置の
ように、実際にやってみると、動かないことがわかった例もあります。山陽新幹線のトンネル内での
コンクリートの剥落事故やレールのひび割れは予想を超えて発生しています。ATS(自動列車停止装置)
があるから安全だといっても居眠り運転は防ぐことはできないのです。
また科学技術の粋を集めたものだから安全。技術の最先端を行くもの、故に安全。といううたい文句は、
性能のよさということを安全にすりかえた議論です。性能の優秀というのは、ふつう、利潤の立場から
みてのよさなのであって、公共の安全を守るという立場からのよさではないのです。性能がよいという
ことは、逆に、それだけ危険がますものです。性能の悪い方が安全で、荷車を引いていれば人間は
いちばん安全だといえるのです。自動車などはだんだん性能がよくなるにつれ危険が起こってくるのです。
欧米の車に比べて日本車の燃費のよいのは、車体に占めるプラスチックの割合が大きくて軽量に製造できる
からですが、そのために衝突事故では死傷率が高くなるのです。
技術者、科学者の安全性への姿勢について1)
技術者はよく「これは安全だということも証明されていないし、危険だということも証明されて
いない。したがって自分はなんにもいえない」といういい方をします。これは一般に良心的ないい方と
されています。たしかに科学の理論の場合には良心的ないい方かも知れませんが、なにかを行う場合
には、「これは安全が証明されていなければ行ってはならない」というのが、本当に良心的ないい方
なのです。危害をもたらす疑いのあるものは、やるべきではないということが、安全性の原則なのです。
この安全性の原則は、また「新しい科学技術を使う場合に、廃棄物の処理の保障のある限りにおいて
生産・使用せよ、保障のないものは使うな」ということにもつながるのです。
おわりに
高度巨大技術に支えられた現代文明の恩恵を受けているのは、いうまでもなく地球上の60億とも
いえるすべての人ではなく、20%程度と考えられています。そして恩恵を甘受している人々に今は多くの
厄災がやってきています。巨大技術が持つ本質的に危険な性質の出現はいうまでもなく、「突発出現
病原体の時代」と言われるような、由来や出現の理由が不明で、治療方法も確立していない病原体の
襲来もそのひとつです。HIV(エイズ疾患ウイルス)、エボラウイルス、ニパウイルス、病原性大腸菌O-157、
BSEプリオン(狂牛病)、SARS(新型肺炎)などがその例です。また遺伝子組み換え技術による食品の市場化、
電磁波による小児白血病の発症リスク、薬剤耐性菌、農薬耐性害虫の出現などもその一例です。それだけに
21世紀はいっそう安全性の論理が重要だと思うのです。
参考文献
1)武谷三男現代論集5「安全性と公害」 勁草書房(1976)
2)小林圭二:東海村臨界事故の概要と問題点、p.24 技術と人間(1999/12)
3)飯田芳和:原発データ改ざんは何故行なわれたか、p.27 技術と人間(2003/1・2)
4)武谷三男:安全性の考え方、岩波新書(青版)644(1967)
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