母を悼んで

                     陳 有 瑞

母は10月1日、私たちと永遠の別れを告げました。
92歳でした。

香港の姉と会って約2時間後のことです。
かすかな炎が、静かに消えていきました。
前の月の27日、夕方になって危篤におちいり主治医から
「今晩か、もっても
明日の命」と宣告されました。

早速、遠隔地にいる姉たちに連絡しました。
東京の姉たちは明日来ることがわかりました。ところが
香港の姉が飛行機の
予約がとれず、月がかわった1日に
なるというのです。

それまでなんとかもってほしいと、「もうすぐ和子が来る
から頑張って」と
励ましながら、家族交代で腕や足をマッサージしました。

私が会社から飛行場に迎えに行く直前、電話が入りました。
「血圧が10まで下がった」と。

空港で、私は姉に「残念ながら間に合わなかった。
たった今、息を引き取った」と話しました。

病院に駆けつけると、母はまだ呼吸をしていました。
最後の力を振り絞ったのでしょうね。

姉は「母さん母さん、香港の和子だよ。」と耳元で
叫びました。

こころもち表情が緩んだように見えました。
そして安心したのか、まもなく
黄泉の国へ行きました。
母は、7人の子供たち全員と会って旅立ったのです。
これは、母からの最高のプレゼントでした。
本当に最後まで頑張ってくれました。
感謝でいっぱいです。
今ごろは、47年ぶりに夫と再会していることでしょう。

私は母が亡くなって、なんの悔いもありません。
だからほとんど涙も出ませんでした。

生きているうちに自分ながら精一杯尽くしたと思うからです。
もちろん私の自己満足かもしれませんが。
母との思い出は、山ほどあるのです。私が辛く苦しんだときは、
いつも優しく励まして力になってくれたのです。
あの時、母の言葉や援助がなかったらどうなっただろうと
今も思うのです。

それがどんなことか、もう二人だけの“秘密”になりました。
葬式では泣きませんでした。もちろん寂しさは隠しようも
ありませんがね。

 危篤におちいる前日、もうすでに肺は片方しか機能して
いませんでした。

呼吸は苦しそうでした。
それでも私に「ユウスイは健康そうだね。健康が一番だよ」
「商売はうまくいっているかい」その後「会社(日昇商事)
を見に行きたい」
と言い出しました。
「元気になったら連れていってあげるよ」と私が話したその時、母の目は
宙を向きました。
自分の死が迫って、それがかなえられないと悟ったの
かもしれません。

あるいは最後の思いを吐き出した安堵感から、放心状態になったの
かもしれ
ません。
「かあさん、疲れるからあまり話さないで」と言ってあげました。
私が病室から出る時、はっきりした口調で「気をつけておかえり」と
声をかけてくれました。

これが、私と交わした母の最期の言葉になりました。

母は私を含め、いつも子供たちや孫達の健康や生活を案じ、
祈っていました。

85歳まで30年以上も毎年欠かさず京都の万福寺にお参りを
しておりました。

その時の付き添いは、ほとんど私がやっていました。
私の心の中には、いつも母の姿がありました。
妻からいつも言われているのですよ。
彼方は、この年になっても親から乳離れしないとね。
私も二児の父です。悲しんでばかりいられません。

丁寧なお悔やみをいただき、心より感謝しています。
葬儀には、ほんとうにたくさんの方が参列してくださいました。
母もきっと喜んでくれたと思います。
告別式で、胸がこみあげてきた時があります。
それは1番上の孫が弔辞を読んだ時です。
40年近く前、私の家は大門の繁華街でお店を経営していました。
冬の寒い夜、帰ってくる間に身体が冷え切ってしまったそうです。
その孫は、毎晩母の布団に入って暖めていたというのです。
母もまた、よほどうれしかったのか、亡くなる直前にその思い出を
姉に語った
そうです。

子供7人、孫17人、曾孫12人、ひとりも欠けることもなく
元気に育って
きました。これも母がいつも見守ってくれたからと思います。
どの兄弟も経済的に安定し、平均レベル以上の能力をもつことができました。
男孫の半分は、医学の道に進んでいます。
夫に早く先立たれ、言葉も習慣も違う異国の地で7人の子供を育てたのです。
苦労も多かったと思います。
でもそれ以上に92年の母の生涯は、恵まれた感謝の一生だったと思います。

ありがとうございました。     

2002.10.8
     

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